※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です
朝七時半。スーツのネクタイを締め直しながら、僕は校門の前に立っていた。
四月の風はまだ少し冷たくて、桜はちょうど満開を少し過ぎたくらい。花びらが足元にたまっている。隣では、仮にAさんとしておくけれど、三十代半ばのお母さんが、息子さんの襟元を何度も直していた。「ちょっと、もう大丈夫だってば」と男の子が照れくさそうに言う。僕はそれを見て笑った。父親として、自然に。
これが僕の仕事だ。

入学式の父親代行。四月は、一年で最も依頼が集中する時期になる。今年も十数件の依頼が入った。そのほとんどが、シングルマザーの方からだ。
Aさんから最初に連絡をもらったのは二月だった。「息子が小学校に上がるんです。入学式に、父親として来てもらえませんか」。メールの文面は短かった。でも、その短さの中に、どれだけ悩んで、どれだけ迷って、ようやくこの数行を打ったのか。僕にはわかる。何百回と、同じような文面を受け取ってきたから。
事前の打ち合わせで会ったとき、Aさんはこう言った。
「私一人でも別にいいんです。本当は。でも、息子が……」

少し言葉を詰まらせて、続けた。
「うちにはお父さんいないの?って聞かれたんです。幼稚園のお友達に。そのとき息子が何て答えたか知ってます? 『お仕事で忙しいんだよ』って。私、そんなこと一度も教えてないのに」
子どもは、親が思っている以上に空気を読んでいる。自分の家に何かが「ない」ことを、たぶん本能的に感じ取っている。そして自分なりに、周囲との辻褄を合わせようとする。六歳の子が。
僕はその話を聞いて、何も言えなかった。何か気の利いた言葉を返すのがプロだろうか。僕はそう思わない。黙ってうなずくことしかできない瞬間がある。それでいいと、今は思っている。
入学式当日の話に戻る。
式が始まる前、体育館の保護者席で僕はAさんの隣に座った。周りを見渡すと、父親と母親が揃って座っている家庭がほとんどだった。スマートフォンを構えるお父さん、ビデオカメラを回すお母さん。当たり前の風景。でも「当たり前」というのは、残酷な言葉だ。それを持っていない人にとっては。
Aさんは膝の上でハンカチを握りしめていた。
名前を呼ばれた息子さんが「はい!」と大きな声で返事をしたとき、Aさんは泣いた。僕も、少しだけ目が熱くなった。演技ではなく。
ここで正直に言う。僕は入学式で泣く。毎回ではないけれど、かなりの頻度で泣く。子どもが一生懸命に返事をしている姿を見て、その子がここまで育つのにお母さんが一人でどれだけ頑張ってきたかを想像して、そこに自分が「父親」として座っているという現実の重さを感じて、涙が出る。
それは演技なのか本物なのか。
僕自身、もうわからない。でも、わからなくていいと思っている。感情が本物なら、それは本物だ。
式が終わった後、校門の前で写真を撮った。「お父さんも一緒に!」と息子さんが僕の手を引いた。その手は小さくて、温かかった。Aさんがスマホを構えて、僕と息子さんのツーショットを撮った。
この写真は、たぶんAさんのスマホの中にずっと残る。息子さんが大きくなったとき、「入学式のお父さん」として、そこに僕が写っている。その事実を、僕はどう受け止めればいいのだろう。
毎年四月になると、僕は考える。
なぜ、入学式に父親がいなければならないのか。
誰がそんなルールを決めたのか。母親一人で来たって、祖父母が来たって、叔父さんが来たって、いいはずだ。家族のかたちは様々で、どれが正しいということはない。頭ではみんなわかっている。
でも現実はどうか。
入学式の保護者席は、二人掛けになっている学校が多い。二人分の席。最初から「両親」が来る前提で設計されている。一人で座ると、隣が空く。その空席が、何よりも雄弁に「不在」を語る。
Aさんのような方は、その空席が怖いのだ。自分が惨めだからではない。息子が、娘が、その空席を見て何を思うかが怖い。子どもの同級生の親がその空席を見て、何を囁くかが怖い。
これは個人の問題ではないと僕は思う。社会の問題だ。
日本のひとり親世帯の約九割は母子家庭だと言われている。百万を超える世帯が、母親一人で子どもを育てている。それだけの数がいるのに、学校の行事は今も「両親揃って参加」を暗黙の前提にしていることが多い。授業参観の「お父さんの絵を描きましょう」、父の日の「お父さんへの手紙」。悪意はない。悪意がないから、余計にきつい。
僕のところに依頼が来るということは、そこに「隙間」があるということだ。社会の仕組みと、現実の家族のかたちの間にある隙間。僕はその隙間を埋めている。でも本当は、隙間そのものがなくなるほうがいい。
本当はこんなサービスはないほうがいい。僕はいつもそう言っている。矛盾していると思われるかもしれない。自分の仕事を否定しているのだから。でも、矛盾していて構わない。必要としている人がいる限り、僕は校門の前に立つ。スーツを着て、ネクタイを締めて、「お父さん」として。
入学式が終わって、Aさん親子と別れた後、僕は駅までの道を一人で歩いた。
ポケットの中で、スマホが震えた。Aさんからのメッセージだった。
「息子が帰りの車の中で言ったんです。『今日、お父さん来てくれてうれしかった』って」
僕はそのメッセージを読んで、しばらく立ち止まった。
あの子にとって、今日の僕は「お父さん」だった。レンタルの父親ではなく、入学式に来てくれたお父さんだった。その事実は美しいのか、悲しいのか。僕には判断がつかない。たぶん、両方だ。
桜の花びらが風に舞っていた。
来年の四月も、僕はどこかの校門の前に立っているだろう。知らない子の名前を覚えて、知らない家族の写真に収まって、知らない子の「お父さん」になる。
その子が「お父さん、来てくれてうれしかった」と言ったとき、僕の胸に広がるこの感情は——偽物だろうか。
僕にはそう思えない。
「僕に依存してほしくない。僕を使って、本当の人間関係を築いてほしい」
— 石井裕一