カーネーションを買う理由を、僕は知らない | 石井裕一 - オフィシャルサイト
レンタル夫

カーネーションを買う理由を、僕は知らない

2024年05月01日

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※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

花屋の前で、僕は立ち止まった。

五月の第二日曜日。店先には赤やピンクのカーネーションが溢れていて、小さな子どもが父親の手を引っ張りながら「ママにこれ!」と指差している。微笑ましい光景だ。でも僕がこれから届けるカーネーションは、そういう物語の中にはない。

依頼者の名前は仮に「恵子さん」としておく。四十代後半。小学五年生の娘がいる。夫は三年前に家を出た。離婚はしていない。ただ、いない。恵子さんが僕に依頼してきたのは、娘の学校行事に「父親」として出席してほしいというものだった。よくある依頼だ。授業参観、運動会、三者面談。僕はもう何十回とこなしてきた。

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でも今回の依頼は少し違った。

「娘が母の日にプレゼントを渡したいと言っているんです。でも、父親がいないと買いに行けないって」

電話越しの恵子さんの声は、笑っているような、泣いているような、どちらとも取れる震え方をしていた。

小学五年生の女の子が、母親へのプレゼントを一人で買いに行けないわけではない。友達と出かけることだってできる。でもその子は——仮に「美咲ちゃん」としよう——「お父さんと一緒に選びたい」と言ったのだそうだ。友達のお父さんが、お母さんへのプレゼントを子どもと一緒に買いに行く。そういう話をクラスで聞いたらしい。

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父親と一緒に母親のプレゼントを選ぶ。その行為自体に意味があるのだと、美咲ちゃんは感じていた。

僕は日曜日の午前中に待ち合わせ場所に向かった。美咲ちゃんとは運動会で一度会っている。「お父さん、久しぶり」と言われて、僕は「久しぶり」と返した。何度やっても、この最初の一言が一番重い。

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ショッピングモールを歩きながら、美咲ちゃんはずっと喋っていた。学校のこと、友達のこと、飼いたい犬の種類のこと。僕は相槌を打ちながら、時々質問を挟む。父親として不自然でない距離感。近すぎず、遠すぎず。これは経験でしか掴めない。

「お父さん、ママって何が好きだと思う?」

美咲ちゃんがふいにそう聞いてきた。

僕は恵子さんのことをほとんど知らない。事前に共有された情報はある。好きな色はラベンダー。紅茶をよく飲む。読書が好き。でもそれは「情報」であって、「知っている」とは違う。本当の夫なら、何年もの生活の中で、言葉にされていない好みまで分かっているはずだ。朝起きたときの機嫌、雨の日に選ぶ靴、冷蔵庫の前で迷ったときの癖。そういうものの蓄積が「知っている」ということだと思う。

でも僕にはそれがない。

「うーん、ママは何が好きかな。美咲はどう思う?」

逃げたわけじゃない。これが正解だと思った。母親のことを一番知っているのは、毎日一緒にいるこの子だ。

「あのね、ママ、最近ハンドクリームがなくなったって言ってた。手が荒れるって」

美咲ちゃんの観察力に、僕は少し驚いた。子どもは見ている。親が思っている以上に、ずっと見ている。

僕たちはドラッグストアに寄って、ラベンダーの香りのハンドクリームを選んだ。それから雑貨屋でメッセージカードを買った。美咲ちゃんは棚の前でかなり長い時間迷っていた。花柄か、猫柄か。僕は急かさずに待った。「父親」として急かさないことが、たぶん一番大事な仕事だった。

最後に花屋に寄った。カーネーションを一本。美咲ちゃんはピンクを選んだ。

「お父さんも一本買ったら?ママに」

そう言われて、僕は一瞬、言葉に詰まった。

レンタルの夫が、依頼者である妻にカーネーションを贈る。それは演技の範囲内なのか。サービスの一環なのか。それとも、何か別のものなのか。

僕は赤いカーネーションを一本買った。美咲ちゃんは嬉しそうだった。その笑顔は本物だった。少なくとも僕にはそう見えた。

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六百人以上の女性の「夫」を務めてきて、母の日の依頼は実はそれほど多くない。クリスマスや誕生日に比べると、母の日は「妻」として祝われる側だから、夫の出番はないと思われがちだ。

でも、違う。

母の日に本当に必要とされているのは、「感謝を届ける仕組み」なんだと僕は思っている。子どもが母親に感謝を届けたいとき、そこに父親という存在が媒介になることがある。父親が「ママにプレゼント買いに行こうか」と声をかける。その一言で、子どもの気持ちに形が与えられる。

恵子さんの家には、その一言を発する人がいなかった。だから僕が行った。

これを「虚しい」と思う人もいるだろう。偽物の父親と買いに行くプレゼントに何の意味があるのか、と。

でも僕は現場で見ている。美咲ちゃんがハンドクリームを選ぶときの真剣な横顔を。メッセージカードに何を書こうか小さな声で呟いていたのを。カーネーションの茎を折らないように、両手で大事に持っていたのを。

あの時間に流れていた感情は、偽物だったのか。

僕にはそうは思えない。

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母の日というのは不思議な日だ。感謝を届ける日のはずなのに、届ける側もまた何かを受け取っている。美咲ちゃんは「ママにありがとうを言いたい」と思っていた。でも実際には、プレゼントを選ぶ過程で、美咲ちゃん自身が満たされていた。誰かのために悩んで、選んで、包んでもらって、持って帰る。その一連の行為が、美咲ちゃんの中に「自分は誰かを大切にできる人間だ」という感覚を育てていた。

僕はそのための舞台装置に過ぎない。そしてそれでいい。

依頼者の中には、僕に依存する人もいる。「ずっとこのままでいてほしい」と言われることもある。でも僕はいつもこう返す。僕を使って、本当の人間関係を築いてほしい、と。美咲ちゃんがいつか本当に信頼できる誰かと一緒に、母親にプレゼントを選ぶ日が来ればいい。そのとき僕のことは忘れてくれていい。

ただ、「お父さんと一緒に選んだ」という記憶だけが、温かいものとして残っていればいい。

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帰り際、美咲ちゃんが小さな紙袋を僕に差し出した。

「お父さんにも。いつもありがとう」

中には、さっき雑貨屋で僕が見ていないときに買ったらしい、小さなキーホルダーが入っていた。犬の形をしている。美咲ちゃんが飼いたいと言っていた犬種だった。

僕は「ありがとう」と言った。それ以上の言葉は出なかった。

帰りの電車で、僕はそのキーホルダーをポケットの中で握っていた。これを鍵につけることは、たぶんしない。他の依頼で別の「家族」に会うとき、説明できないものを持ち歩くわけにはいかない。でも捨てることも、もちろんできない。

僕の部屋の引き出しには、こういうものがいくつか入っている。名前を呼べない子どもたちからもらった、行き場のない感謝の形。それを見るたびに思う。

僕は誰なんだろう、と。

美咲ちゃんにとっての「お父さん」は本物だったのか。恵子さんにとっての「夫」は本物だったのか。そして僕自身にとって、あの午後は何だったのか。

答えは出ない。たぶん、出なくていい。

ただ一つだけ確かなことがある。あのピンクのカーネーションを持って帰った美咲ちゃんは、今日、母親に「ありがとう」を届けた。その言葉は、どこからどう見ても、本物だった。

僕が買った赤いカーネーションは、恵子さんの食卓のコップに挿されているだろうか。それとも、もう枯れてしまっただろうか。

どちらでもいい。あの花が存在した日曜日の午後は、確かにあった。それだけで十分だと、僕は思うことにしている。

「感情が本物なら、それは本物だ」

— 石井裕一