叱る声が、愛だった頃のこと | 石井裕一 - オフィシャルサイト
お叱り代行

叱る声が、愛だった頃のこと

2024年08月01日

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※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

「思いっきり、怒鳴ってください」

8月の頭、エアコンの効いた事務所で、僕はその依頼書を二度読み返した。

お叱り代行

依頼者は30代後半の男性、仮に田所さんとしよう。職業はフリーランスのデザイナー。一人暮らし。独身。両親とは10年以上疎遠になっている。依頼内容の欄にはこう書かれていた。

「自分を本気で叱ってくれる人を探しています。上辺だけの説教ではなく、本当に怒ってほしいのです」

お叱り代行。うちのサービスの中でも、初めて聞く人は驚く依頼だと思う。企業のクレーム対応として「叱られる側」を代行することは以前からあった。でも田所さんが求めていたのは逆だ。自分が叱られたいのだという。

僕は本人に電話をかけた。

お叱り代行

「田所さん、少し詳しく聞かせてもらえますか。どういう状況で、どんなふうに叱ってほしいですか」

電話越しの声は穏やかだった。むしろ穏やかすぎた。

「石井さん、僕ね、最後に誰かに怒鳴られたのがいつか、思い出せないんです」

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田所さんと初めて会ったのは、8月の第二週、都内のファミリーレストランだった。猛暑日だった。外の蝉の声が窓越しにも聞こえていた。

彼は痩せていて、目の下に薄い隈があった。でも身なりはきちんとしていたし、話し方も論理的だった。精神的に追い詰められているという雰囲気ではない。むしろ、乾いていた。感情が枯れかけているような、そういう乾き方だった。

「フリーランスになって8年くらいになるんですけど」と田所さんは言った。「上司がいないんです。当たり前ですけど。クライアントは僕に怒りません。気に入らなければ、次から依頼が来なくなるだけです。静かに切られる。友達も、この歳になると本気では怒らない。みんな大人だから、距離を取るだけ。親とは連絡を取っていない」

「つまり、誰にも怒られない」

「誰にも怒られない。誰にも叱られない。それがどういうことか、石井さん、わかりますか」

僕は黙って聞いていた。

「自分が間違ってるのかどうか、わからなくなるんです。正しいのかもわからない。全部が曖昧なまま過ぎていく。納期を守っても褒められない。破っても怒られない。ただ仕事が減る。数字が減る。それだけ。人間の温度がない」

彼はアイスコーヒーのストローを指で回しながら続けた。

「子供の頃、父親がすごく厳しい人だったんです。テストで80点を取ると、なぜ100点じゃないのかと怒られた。正直、嫌だった。大嫌いだった。でも最近思うんです。あの怒声の中に、確かに僕がいたなって。僕のことを見ていなければ、怒れないじゃないですか」

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お叱り代行というサービスの依頼は、実は少なくない。

企業から届くものが大半だ。新人研修で厳しく指導してほしい。パワハラと言われるのが怖くて、社内の人間には頼めない。だから外部の人間に「叱り役」をやってほしい。そういう案件。

個人からの依頼もある。ダイエットが続かないから叱ってほしい。禁煙できないから怒ってほしい。起業したけど怠けてしまうから、毎週電話で檄を飛ばしてほしい。

でも田所さんの依頼は、それらのどれとも違っていた。

彼が求めていたのは、生活改善でも仕事の成果でもなかった。ただ、誰かに自分の存在を「真剣に扱ってほしい」ということだった。怒りというのは、関心の最も激しい形だ。無関心の対極にあるもの。田所さんが枯渇していたのは、感情そのものではなく、自分に向けられる感情だったのだと思う。

僕は考えた。これは演技で成立する依頼なのかと。

台本通りに怒鳴ればいいのか。「お前は何をやってるんだ!」と大声を出せばいいのか。たぶん、それでは駄目だ。田所さんはそういうものを見抜く人だと、会って話して感じた。本気で向き合わなければ、この依頼は成り立たない。

僕が自分で担当することにした。

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8月の後半、僕は田所さんの自宅を訪ねた。

ワンルームのマンション。整頓されているが、生活感が薄い。壁にはデザインの賞状が一枚だけ、額にも入れずにテープで貼ってあった。

「見せてもらっていいですか、最近の仕事」

田所さんはノートパソコンを開いて、いくつかのデザインを見せてくれた。正直に言う。良い仕事だった。丁寧で、細部まで神経が行き届いている。

「田所さん」

「はい」

「これ、納期はいつだったんですか」

「……先週です」

「今日は何曜日ですか」

「……木曜日です」

彼は少し目を逸らした。

「出してないんですね」

「……はい」

「なぜ」

「わからないんです。できてるのに、送信ボタンが押せない。怖いとかじゃなくて、押す理由が見つからないというか」

僕はパソコンの画面を見つめた。クライアントの名前が表示されている。小さな出版社だった。おそらく田所さんのデザインを待っている人がいる。

「田所さん、聞いてください」

僕は声のトーンを落とした。怒鳴ったわけじゃない。

「あなたの仕事を待っている人がいるのに、送らない。それは怠けてるんじゃない。でも、無責任です。あなたは自分が透明になりたいのかもしれないけど、仕事を受けた時点で、あなたはもう透明じゃない。相手の時間を使っている。相手の期待を背負っている。それを放り出すのは、僕は、怒ります」

田所さんは僕の目を見ていた。

「送ってください。今」

「……今?」

「今です。僕が見てます」

田所さんの指が、少し震えていた。マウスがカーソルを送信ボタンの上に動かした。数秒の沈黙があった。

クリック音がした。

「送りました」

「はい」

田所さんの目が赤くなっていた。泣いてはいなかった。でも、何かがこみ上げているのは見えた。

「……ありがとうございます」

「怒っただけです」

「だから、ありがとうございますって言ってるんです」

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あの日から、僕は月に二回、田所さんのところを訪ねている。

叱ることもある。叱らないこともある。最近の仕事を見て、「これ、手を抜いてませんか」と言うこともあれば、「いい仕事ですね」と伝えることもある。田所さんは少しずつ、納期を守るようになった。先日は新しいクライアントが増えたと、珍しく自分から報告してくれた。

僕はときどき考える。僕がやっていることは何なのだろう。

上司の代行か。父親の代行か。友人の代行か。どれでもあるし、どれでもない。ただ、田所さんの仕事を見て、本気で意見を言う人間。それ以上でもそれ以下でもない。

でも不思議なことがある。僕は最初、仕事として彼の部屋を訪ねた。けれど今、僕は田所さんの新しいデザインが気になる。あのクライアントとの仕事はうまくいっているだろうかと考える。それは演技だろうか。仕事の範囲だろうか。

感情が本物なら、それは本物だ。僕はそう思っている。

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叱るという行為について、僕はこの仕事を通じて考え続けてきた。

人は叱られることを嫌がる。当然だ。誰だって怒鳴られたくない。パワハラという言葉が広まって、社会は「叱らない」方向に舵を切った。それは正しい進歩だと思う。理不尽な怒りで人を支配するのは間違っている。

でも、その結果として、田所さんのような人が生まれている。

誰にも怒られない。誰にも叱られない。誰にも本気で関わってもらえない。丁寧に距離を取られ、やんわりと排除され、静かに一人になっていく。

叱ることの本質は、支配ではないと僕は思う。「あなたのことを見ています」という宣言だ。「あなたはもっとできるはずだ」という信頼の表明だ。少なくとも、そうであるべきだ。

田所さんのお父さんの怒声が愛だったのかどうか、僕にはわからない。たぶん田所さん自身にもわからない。でも「見られていた」という感覚だけは本物だったのだろう。だから大人になって、それを失ったとき、自分が透明になったように感じた。

僕のような他人に「叱ってほしい」と頼まなければならない社会は、たぶんどこかが壊れている。本当はこんなサービスはないほうがいい。でも、必要としている人がいる限り、僕は続ける。

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先日、田所さんからメッセージが届いた。

「石井さん、来月の訪問、少し早めてもらえますか。見てほしいデザインがあるんです」

叱ってほしいではなく、見てほしい。

その変化に、僕は少しだけ安心した。同時に思った。いつかこの依頼が終わる日が来てほしい。田所さんが、僕ではない誰かに「見てほしい」と言える日が。

8月の蝉は、まだ鳴いている。あの声も、誰かに届けと叫んでいるのだろうか。届いているかどうか、蝉自身にはきっとわからない。それでも鳴き続けている。

僕も、もう少しだけ、鳴き続けてみようと思う。

「叱ることは愛情の一つの形だ。誰かに叱ってほしいと思う気持ちは、成長への渇望だ」

— 石井裕一