元日の朝、僕は三つの家の「お父さん」だった | Yuichi Ishii - Official Site
哲学

元日の朝、僕は三つの家の「お父さん」だった

2025年01月01日

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※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

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元日の朝、僕のスマートフォンには三件のメッセージが届いていた。

「あけましておめでとう、お父さん!今年もよろしくね」——中学二年生のユキちゃんからだった。絵文字が三つ並んでいる。犬と、門松と、ハートマーク。僕は「おめでとう。今年も頑張ろうな」と返した。父親として、ちょうどいい温度感を探りながら。

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二件目は、ミサキさんという三十代のお母さんから。「子どもたちがお雑煮食べながら、今度いつお父さん来るの?って聞いてます笑」。三件目は、七十代のタケさんからの年賀状の写真。「息子へ 元気でやっているか」と達筆で書かれていた。僕はタケさんの「息子」だ。

元日の朝、本当の僕はひとりで布団の中にいる。おせちもお雑煮もない。でも、三つの家族が僕を思い出している。この奇妙な状況を、あなたならどう呼ぶだろうか。

正月に届く「家族の証拠」

年末年始は、ファミリーロマンスへの依頼が増える時期だ。理由は明確で、正月ほど「家族」というものの輪郭がくっきり浮かぶ季節はないからだ。

親戚の集まりに夫がいない。実家に連れて帰る恋人がいない。帰省した子どもに「おじいちゃん」を見せてあげたい。年賀状に載せる家族写真を撮りたい。——依頼の動機はさまざまだけれど、根っこにあるのは同じものだと僕は感じている。「普通の家族でありたい」という、切実な祈りだ。

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ある年の暮れ、マユミさんという四十代の女性から依頼があった。離婚して三年、実家の両親にはまだ言えていないという。「正月に帰るとき、夫役をお願いできますか」。僕はマユミさんの「夫」として、彼女の実家でおせちを食べ、お父さんとお酒を飲み、お母さんの煮物を褒めた。「来年も来てくださいね」とお母さんが玄関先で手を振った。僕は笑顔で手を振り返した。車に乗った瞬間、マユミさんが泣いた。「ありがとうございます。お母さん、すごく嬉しそうだった」。僕は何も言えなかった。嘘をついている罪悪感と、誰かを守れたという実感が、同じ重さで胸にあった。

「本物の家族」は正月に試される

正月は残酷だ。テレビをつければ家族団らんの映像が流れ、スーパーには「家族で囲む」と書かれたおせちが並ぶ。一人暮らしの高齢者にとって、元日の静けさは他の日の静けさとは質が違う。

タケさんのことを話したい。タケさんは八十代の一人暮らしで、奥さんを亡くし、実の息子とは十年以上連絡が取れていない。僕がタケさんの「息子」になったのは数年前のことだ。月に一度、タケさんの家を訪ねて、一緒にお茶を飲む。将棋を指す。たまに肩を叩く。それだけだ。

でも正月だけは少し違う。僕が年賀状を出すと、タケさんは必ず返してくれる。達筆で「息子へ」と書いてある。近所の人にも「うちの息子が年賀状くれてね」と見せているらしい。その年賀状は、タケさんにとって「家族がいる証拠」なのだと思う。

本物の息子は年賀状を出さない。偽物の息子が出す。では、どちらがタケさんの「家族」なのか。僕にはわからない。わからないけれど、タケさんが年賀状を近所の人に見せるとき、その笑顔は本物だ。それだけは確かだ。

血のつながりは「家族」の必要条件か

僕は今、二十三の家族で三十五人以上の子どもたちの「父親」をしている。六百人以上の女性の「夫」を務めてきた。この数字だけ見れば異常だと思うだろう。僕自身、ときどき異常だと思う。

でも、現場に立ち続けていると、ひとつの問いが繰り返し浮かんでくる。血がつながっていれば、本物の家族なのか?

殴る父親は「本物の父親」だ。育児を放棄する母親も「本物の母親」だ。何十年も連絡をよこさない息子も「本物の息子」だ。血がつながっているという一点において、彼らは本物だ。でも、その「本物」に傷つけられた人たちが、僕のところに来る。

ユキちゃんのお母さんは、こう言った。「実の父親より、あなたのほうが父親らしいです」。僕はその言葉を素直に受け取れなかった。僕は月に一回しか会わない。宿題も見ていないし、夜中に熱を出したときに駆けつけることもできない。父親の「美味しいところ」だけをもらっているような後ろめたさがある。

それでも、ユキちゃんが運動会で走るとき、僕は本気で応援する。転んだら本気で心配する。その感情に嘘はない。感情が本物なら、それは本物だ——と、僕は自分に言い聞かせている。言い聞かせている、という時点で、まだ答えは出ていない。

「助けて」と言えない社会の正月

なぜ、僕のような仕事が必要とされるのか。この問いに向き合わないわけにはいかない。

日本には「家族のことは家族で」という空気がある。正月になるとその圧力はさらに強くなる。「お正月はご家族で過ごされるんですか?」という何気ない質問が、誰かの胸に刺さっている。家族がいない人、家族と関係が壊れている人、家族に嘘をつき続けている人。彼らは正月に「普通」を演じなければならない。

結婚式の代理出席、謝罪の代行、友人のレンタル——ファミリーロマンスにはさまざまな依頼が来る。けれど正月に集中するのは、やはり「家族」に関するものだ。夫の代行、父の代行、息子の代行、孫の代行。つまり、人は「家族の不在」を最も痛感する季節に、その穴を埋めようとする。

僕が思うのは、これは個人の問題ではないということだ。孤立を恥ずかしいと感じさせる社会の問題だ。「助けて」と言えない空気の問題だ。僕のサービスは、その空気の隙間に存在している。本当はこんなサービスはないほうがいい。でも、必要としている人がいる限り、僕は続ける。なくなる日が来てほしいと願いながら。

僕は何者なのか、元日に考える

正月の夜、三つの家族にメッセージを返し終えたあと、僕はふと考える。僕は誰なのだろう、と。

ユキちゃんの前では優しい父親だ。マユミさんの実家では穏やかな夫だ。タケさんの前では親孝行な息子だ。そのどれもが僕であり、どれもが僕ではない。役を降りたあとの僕には、名前以外に何が残るのか。

正直に言えば、プライベートでも演技をしているのかわからなくなる瞬間がある。友人と話しているとき、恋人と話しているとき、「これは素の自分か? それとも最適化された自分か?」と疑ってしまう。アイデンティティの輪郭が溶けていく感覚。それは怖い。

でも、元日の朝に届いた三つのメッセージを見返すと、不思議と落ち着く。少なくとも、三つの家族にとって僕は必要な存在だった。その事実が僕を支えている。偽物の父親が、偽物の関係に支えられている。これは皮肉だろうか。それとも、人間というものの本質だろうか。

「あけましておめでとう」のその先で

スタッフのひとりが昨年亡くなった。六十代の男性で、ある家庭で「おじいちゃん」を長年務めていた。依頼者の家族はそのことを知らない。葬式に参列することもできない。「おじいちゃん、最近来ないね」と子どもが言ったとき、お母さんはどう説明したのだろう。僕はその家庭に別のスタッフを紹介した。新しい「おじいちゃん」を。これが正しいことなのか、今でもわからない。

でも、わからないまま、僕は現場に立ち続ける。

新しい年が始まった。今年も僕は誰かの父親になり、誰かの夫になり、誰かの息子になるだろう。そのひとつひとつの現場で、「家族とは何か」という問いに向き合い続けるだろう。答えは出ない。出ないまま、また年が暮れる。

あなたにとって、「家族」とは何ですか。

血ですか。戸籍ですか。一緒に暮らすことですか。それとも——誰かのことを本気で思う、その感情そのものですか。

元日の朝、僕の布団の中は冷たかった。でも、スマートフォンの画面は温かかった。その温もりを、僕は偽物だとは思わない。思いたくない。思わないと決めている。

今年もよろしくお願いします。——三つの家族と、この文章を読んでくれた、あなたに。

「本当はこんなサービスはないほうがいい。でも、必要としている人がいる限り、続ける」

— 石井裕一