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哲学

踏み台でいい——僕が続ける理由

2025年11月01日

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※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です。

十一月の日曜日、僕は公園のベンチに座っていた。隣には小学三年生の男の子。仮に「ユウキ」としておく。ユウキは膝の上にどんぐりを三つ並べて、黙ってそれを転がしていた。

「ねえ、お父さん」

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ユウキが言った。

「お父さんって、いつか来なくなる?」

僕は一瞬、言葉を失った。この子は知っている。僕が本当の父親ではないことを、知らないはずだ。でも子供は、大人が思うよりずっと多くのことを感じ取っている。僕は「どこにも行かないよ」と言った。嘘ではない。依頼が続く限り、僕はここに来る。でも依頼が終われば、僕はこの子の人生から消える。どんぐりが一つ、ベンチから転がり落ちた。ユウキはそれを拾わなかった。

あの日から何年も経った。ユウキの母親からの依頼は今も続いている。でもあの問いは、ずっと僕の中に残っている。僕はいつか来なくなる存在だ。それでも、今ここにいることに意味はあるのか。十一月の冷たい風が吹くたびに、あの公園のベンチを思い出す。

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消える前提で関わるということ

僕の仕事には、終わりがある。当たり前のことだ。依頼者が「もう大丈夫です」と言えば、それで終わる。結婚式の代理出席なら、披露宴のお開きとともに僕の役割は消える。友人代行なら、相手が本当の友人を見つけた時点で僕はいなくなる。

でも、この「消える前提」こそが、僕がこの仕事を続けられる理由でもある。

以前、ある女性——仮に「ミキさん」としよう——から夫の代行を依頼された。ミキさんは離婚後、実家の両親に「夫」を紹介しなければならない事情があった。僕は月に一度、ミキさんの実家を訪れ、義理の息子として振る舞った。お義父さんの囲碁の相手をし、お義母さんの煮物を褒めた。一年ほど経った頃、ミキさんから連絡があった。「本当にお付き合いしている人ができました。もう大丈夫です」。電話越しの声は明るかった。

僕はその夜、少しだけビールを多く飲んだ。寂しかったのか、安堵したのか、自分でもわからなかった。ただ一つ確かなのは、僕が消えることでミキさんの人生が前に進んだということだ。踏み台は、踏まれてこそ意味がある。踏んだ人が高いところに手を伸ばせたなら、それでいい。

「ありがとう」が届かない場所

この仕事をしていると、感謝されることがある。でも、されないこともある。というより、されないほうが多い。

高齢者の見守り代行というサービスがある。一人暮らしのお年寄りのもとを定期的に訪れ、話し相手になり、安否を確認する。ある依頼では、八十代の女性——仮に「ハルさん」——のもとに、僕のスタッフが「近所に住む青年」として通っていた。ハルさんは認知症の初期で、スタッフの名前を毎回忘れた。それでもスタッフは毎週同じように「こんにちは、隣の田中です」と自己紹介し、お茶を飲み、天気の話をした。

ハルさんが施設に入ることになり、依頼は終了した。ハルさんは最後まで、スタッフの名前を覚えなかった。「ありがとう」も「さようなら」もなかった。スタッフは「自分が何のために通っていたのかわからなくなった」と言った。

僕は彼にこう言った。「ハルさんが毎週、お茶を淹れて待っていたのは事実だよ。名前は忘れても、誰かが来る水曜日を楽しみにしていた。それは君がいたからだ」。彼は黙ってうなずいた。感謝の言葉が届かなくても、そこに確かにあった時間は消えない。記憶が消えても、感情の痕跡は残る。僕はそう信じている。

本物の踏み台とは何か

「踏み台でいい」と言うと、自己犠牲に聞こえるかもしれない。でも僕は、自分を犠牲にしているつもりはない。

哲学者の言葉を借りるまでもなく、人間の関係には「手段」と「目的」がある。僕は依頼者にとって手段だ。父親のいない家庭に父親を供給する手段。結婚式の空席を埋める手段。謝罪の場に頭を下げに行く手段。それを冷たいと感じるだろうか。

でも考えてみてほしい。あなたが誰かに「手段として必要だ」と言われたら、それは本当に悲しいことだろうか。あなたがいなければ成り立たない場面がある。あなたの存在によって、誰かが一歩を踏み出せる。それは「道具」とは違う。踏み台は、踏む人の体重を受け止める強さがいる。方向を示す知恵がいる。そして、踏まれた後に静かにそこにいる覚悟がいる。

僕が二十三の家族で三十五人以上の子供の「父親」をしているのは、それが僕にとっても意味のあることだからだ。子供たちの運動会で走る姿を見て、心が動かないわけがない。卒業式で涙をこらえるのは演技ではない。僕の感情は本物だ。感情が本物なら、その関係は「偽物」と呼べるのだろうか。

十一月の日本に足りないもの

十一月になると、街は少しだけ寂しくなる。イルミネーションが始まる前の、あの中途半端な暗さ。年末に向けて人々が忙しくなり、孤独な人はますます孤独になる。

僕のもとには、この時期になると依頼が増える。年末年始に「家族」が必要だという依頼。忘年会に「友人」として同席してほしいという依頼。クリスマスに「恋人」を演じてほしいという依頼。これらを「哀れだ」と笑う人がいるかもしれない。でも僕は、依頼してくる人たちの勇気のほうに目を向けたい。

日本社会は「自己責任」という言葉が好きだ。友人がいないのは自分のせい。家族がうまくいかないのは自分のせい。孤独なのは自分のせい。でも本当にそうだろうか。核家族化が進み、地域の紐帯が薄れ、職場のつながりも希薄になった社会で、人間関係を自力で構築し続けるのは、実は途方もなく難しいことだ。

ファミリーロマンスに来る人たちは、弱い人ではない。自分に必要なものを知っていて、それを手に入れるために行動している人たちだ。踏み台を使うことは恥ではない。高いところに手を伸ばそうとしている証だ。

僕自身は誰の踏み台にもなれていない

偉そうなことを言ったが、僕自身のことになると話は別だ。

六百人以上の女性の「夫」を務めてきた僕は、プライベートで誰かの本当のパートナーであることが、正直、難しくなっている。演技なのか本心なのか、自分でもわからなくなる瞬間がある。「いってらっしゃい」と言う時、僕は誰に向かって言っているのか。朝、鏡を見て「今日の自分は誰だ」と思うことがある。

五千人以上のスタッフを抱える会社の代表として、僕は彼らの踏み台になれているだろうか。年配のスタッフが亡くなった時、依頼者はその葬式に参列できなかった。依頼者にとって、そのスタッフは「友人」だったのに。その「友人」の死を悲しむ場所すらない。僕はその矛盾を解消できていない。

ユウキに「どこにも行かないよ」と言った僕は、自分自身がどこにいるのかわかっていなかった。踏み台は、誰かのために安定していなければならない。でも僕という踏み台は、時々ぐらつく。それでも、ぐらつきながら立ち続けるしかない。立ち続けることが、僕にできる唯一のことだから。

踏まれた跡が残る

十一月の公園は、落ち葉で覆われている。踏めば音がする。足跡が残る。でも風が吹けば、また葉が積もって足跡は消える。

僕の仕事もそれに似ている。依頼者の人生に一時的に足跡を残し、やがて消える。でも、踏まれた地面は少しだけ固くなっている。そこを歩いた人の重みを覚えている。

ユウキは今、中学生になった。先日、母親から連絡があった。「息子が、友達に『うちのお父さんはすごいんだ』と話していたそうです」。僕は何もすごくない。運動会で応援し、宿題を見て、たまにキャッチボールをしただけだ。でもユウキにとって、それが「すごいお父さん」だった。

本当はこんなサービスはないほうがいい。全ての子供に本当の父親がいて、全ての高齢者に話し相手がいて、全ての人に本当の友人がいる社会のほうがいい。でも、そうではない現実がある。必要としている人がいる限り、僕は続ける。

踏み台でいい。踏んだ人が、僕の頭の上を越えて、もっと遠くを見てくれるなら。

どんぐりが一つ、ベンチから落ちたまま。拾わなくていい。それがそこにあったことを、僕は覚えている。

「本当はこんなサービスはないほうがいい。でも、必要としている人がいる限り、続ける」

— 石井裕一