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高齢者見守り

木曜日のやかんが沸く音

2026年02月01日

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※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

毎週木曜日の午前十時、僕は杉並区のあるアパートの前に立つ。築四十年を超える二階建ての、一階の角部屋。表札には「中村」と書かれているが、もうずいぶん前から中村さん一人しか住んでいない。インターホンを押す。五秒ほどして、スリッパを引きずる音が聞こえてくる。その音を聞くたびに、僕は少しだけ息を吐く。ああ、今週も歩いている。今週も、生きている。

ドアが開く。八十七歳の中村ヨシさんは、いつもと同じ紺色のカーディガンを着て、いつもと同じ言葉を言う。

高齢者見守り

「あら、裕ちゃん。寒かったでしょう」

二月の冷たい風が廊下を吹き抜ける。僕はいつもと同じように答える。「全然。今日はあったかいほうですよ」。本当は手がかじかんでいる。でも、このやり取りが僕たちの儀式なのだ。

やかんを火にかけるまでの三十分

部屋に上がると、まずヨシさんはやかんに水を入れる。これが重要な合図だ。やかんを火にかけられるということは、ガスコンロの操作ができているということ。水の量が適切だということは、判断力が保たれているということ。僕はさりげなく見る。台所を観察する。冷蔵庫に貼ってある曜日ごとのメモ、ゴミ出しのカレンダー、薬のケース。先週と変わっていないか、何か新しい異変はないか。

これが「高齢者見守り」というサービスの実態だ。僕たちは監視カメラではない。ヨシさんの息子さんから依頼を受けて、週に一度、「近所の知り合い」として訪問する。息子さんは大阪に転勤して三年になる。月に一度は東京に来るが、それ以外の日々を誰がヨシさんのそばで見ているのか。ヘルパーさんは週二回来る。でもヘルパーさんは介護のプロであって、世間話の相手ではない。

高齢者見守り

お茶が入る。ヨシさんは決まって煎餅を二枚出す。一枚は僕の分、一枚は自分の分。この煎餅が切れていたら、それは買い物に行けていないサインだ。今日は、ある。醤油味のかたい煎餅。ヨシさんは歯が丈夫で、このかたさを好む。「歯医者に褒められたの」と嬉しそうに言う。僕はそのエピソードを三回目くらいに聞いているが、初めてのように「すごいですね」と言う。ヨシさんの笑顔が見たいからだ。

「裕ちゃん」は誰なのか

ヨシさんは僕のことを「裕ちゃん」と呼ぶ。近所に住んでいた幼馴染の息子、という設定だ。その幼馴染——仮に「田中さん」としよう——は実在する人物で、数年前に亡くなっている。田中さんに息子がいたのかどうか、正直なところヨシさんの記憶は曖昧だ。でも「裕ちゃん」という名前にはヨシさんなりの親しみがあって、僕はそれを受け取っている。

高齢者見守りの依頼で一番難しいのは、この「設定の維持」だ。ヨシさんは認知症ではないが、記憶の輪郭がときどきぼやける。先週話したことを忘れることもあれば、五十年前のことを昨日のように語ることもある。僕はそのどちらにも自然についていかなければならない。「あのとき裕ちゃん、まだランドセル背負ってたわよね」と言われれば、「そうでしたっけ」と笑ってみせる。否定はしない。修正もしない。ヨシさんの世界の中で、「裕ちゃん」はたしかに存在している。その存在を壊す権利は、僕にはない。

ただ、ときどき考える。ヨシさんにとって僕は何なのだろう。本物の「裕ちゃん」ではない。でも毎週来る。お茶を飲む。煎餅を食べる。テレビの話をする。天気の話をする。この繰り返しの中に、何かが積み重なっている。それは演技と呼ぶには重すぎて、家族と呼ぶには軽すぎる。名前のない関係だ。

二月の窓辺で見えるもの

二月のヨシさんの部屋は、寒い。エアコンはあるが、ヨシさんは電気代を気にしてあまり使わない。こたつと石油ストーブが主力だ。僕が来ると、ストーブの火を少し強くしてくれる。「裕ちゃんは寒がりだから」と言いながら。本当はヨシさんのほうが寒いはずなのに。

窓の外に小さな梅の木がある。隣の家の庭に植わっているのだが、枝がヨシさんの窓側にまで伸びていて、毎年二月になるとつぼみがふくらむ。ヨシさんはそれを楽しみにしている。「今年は遅いわね」とか「あら、もう三つ咲いてる」とか、梅の進捗報告を僕にしてくれる。

ある木曜日、ヨシさんが言った。「裕ちゃん、この梅が咲くとね、ああ今年も生きてたなって思うの」。何気ない口調だった。でも僕は湯飲みを持つ手が少し震えた。「生きてた」ではなく「生きてた"な"」なのだ。確認するように。自分自身に言い聞かせるように。

一人暮らしの高齢者にとって、季節の変わり目は残酷だ。梅が咲くのを一緒に見る人がいない。「きれいだね」と言い合う相手がいない。だから僕は言った。「本当だ、三つ咲いてますね。きれいですね」。ヨシさんは「でしょう」と笑った。あなたは想像できるだろうか。「きれいだね」と言ってくれる人が週に一人しかいない生活を。

孤独は静かに人を壊す

日本には一人暮らしの高齢者がおよそ七百万人いると言われている。その多くは、ヨシさんのように「健康だけど孤独」な人たちだ。体は動く。頭もはっきりしている。でも話し相手がいない。誰かに「今日は寒いね」と言えない。スーパーのレジで「ありがとう」と言う以外に、一日中声を出さない日がある。

僕たちファミリーロマンスに高齢者見守りの依頼をしてくるのは、本人ではなく家族であることがほとんどだ。遠方に住む息子や娘が、親のことを心配して連絡してくる。「電話はしてるんですが、最近元気がなくて」「デイサービスは嫌がるんです」「近くに知り合いがいなくて」。切実な声ばかりだ。

ヨシさんの息子さん——仮に「中村健一さん」としよう——は、最初の面談で泣いた。四十代の、がっしりした体格の男性が、「母を一人にしている自分が許せない」と言って泣いた。でも仕事がある。家族がある。大阪を離れるわけにはいかない。東京に呼び寄せようとしたが、ヨシさんは「この部屋で死にたい」と言う。親の意思を尊重することと、親を孤独にすることの間で、健一さんはずっと揺れていた。

僕は思う。これは個人の問題ではない。家族の形が変わり、地域のつながりが薄くなり、長生きすることが「一人で長く耐える」ことと同義になってしまった社会の問題だ。僕たちのサービスは、その隙間を埋めているに過ぎない。

僕は何を置いていくのか

毎回、ヨシさんの家を出るのは正午前だ。約二時間。たったそれだけの時間だ。帰り際、ヨシさんはいつも玄関まで来て、僕の背中に向かって言う。「また来週ね、裕ちゃん」。僕は振り返って「はい、また来週」と答える。ドアが閉まる。スリッパの音が遠ざかる。

その瞬間、僕はいつも立ち止まってしまう。この二時間の間、ヨシさんは笑っていた。でも、あと六日間は。次の木曜日までの百六十六時間を、ヨシさんはどう過ごすのだろう。梅の花を一人で数えるのだろうか。テレビに向かって「寒いわね」と言うのだろうか。

正直に言う。僕はこの仕事をしていて、自分の無力さを感じることがある。週に一度来るだけで何が変わるのか。煎餅を食べてお茶を飲んで、それで孤独が消えるのか。消えない。消えるわけがない。でも、ヨシさんが「来週も来てね」と言う限り、僕は来る。たとえそれが海に一滴の水を垂らすような行為だとしても、その一滴をヨシさんは待っている。

健一さんには月に一度、報告書を送る。母親の様子、体調の変化、気になったこと。でも報告書には書けないこともある。梅を見るヨシさんの横顔とか、煎餅を割るときのかすかな力の入れ方とか、「生きてたな」と呟いたときの声の温度とか。それは僕の中にだけ残る。

木曜日が来るたびに

先週の木曜日、ヨシさんが珍しく僕に聞いた。「裕ちゃんは、なんでおばあちゃんのところなんかに来てくれるの?」。不意を突かれた。ヨシさんは普段、僕が来る理由を問わない。「近所だから」「心配だから」——そういう曖昧な前提の上にこの関係は成り立っている。

僕は少し考えて、こう答えた。「ヨシさんのお茶がおいしいからですよ」。ヨシさんは「うそばっかり」と笑った。でも嬉しそうだった。その笑顔を見て、僕は思った。理由なんて何でもいいのだ。来る。ただ来る。それだけのことが、人を支えることがある。

本当はこんなサービスはないほうがいい。家族が近くにいて、友人がいて、隣近所が気にかけてくれる。そんな社会なら、僕は必要ない。でも現実はそうなっていない。だから僕は木曜日にやかんの音を聞きに行く。

二月の梅は、まだ五分咲きだ。来週の木曜日には、もう少し開いているだろう。ヨシさんはきっとこう言う。「裕ちゃん、見て。七つになったわよ」。僕は「本当だ」と言うだろう。窓辺に並んで、二人で梅を数える。それだけのことだ。それだけのことが、たぶん、この世界には足りていない。

「一人でいることと、孤独であることは違う。でも、誰かがそばにいるだけで救われることがある」

— 石井裕一