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雨粒は嘘をつかない——「本物の感情」についての覚え書き

2024年06月01日

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※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です

先週の土曜日、ある少年の中学校の運動会に行ってきた。

彼の「父親」として、もう六年になる。仮に、タケルとしておく。小学四年生だったタケルは、今年で中学三年生になった。背は僕をとっくに追い越している。声変わりもした。でも、リレーでバトンを受け取る直前にこっちをちらっと見る癖だけは、六年前と変わらない。

その日は朝から雨だった。

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六月の雨。梅雨のど真ん中。プログラムは一時間遅れで始まり、保護者たちは傘を差しながら、ぬかるんだグラウンドの端に固まっていた。僕のすぐ隣に、タケルの母親——仮にユキさんとしておく——が立っていた。ユキさんは小さな折りたたみ傘しか持っていなくて、僕の傘に少しだけ入ってきた。肩が触れた。

その瞬間、僕は考えてしまった。

この光景を誰かが見たら、どう見えるだろう。仲のいい夫婦に見えるだろうか。雨の中、息子の運動会を一緒に応援する、ごく普通の家族に見えるだろうか。

見えるだろうな、と思った。

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そして、それは「嘘」なのだろうか。

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僕はこの仕事を長くやっている。五千人以上のスタッフを抱える会社の代表であり、同時に今も現場に立ち続けている人間だ。二十三の家族で三十五人以上の子供たちの「父親」を務め、六百人を超える女性の「夫」を演じてきた。

数字だけ見れば、異常だと思うだろう。僕自身もそう思う。

でも、一つ一つの現場には、数字では語れないものがある。

タケルの運動会の話に戻る。リレーが始まった。タケルは第三走者だった。バトンを受け取る直前、やっぱりこっちを見た。僕は右手を軽く上げた。いつものサインだ。「大丈夫、見てるよ」という意味の。

タケルは走った。雨でぬかるんだトラックを、泥を跳ね上げながら。途中、コーナーで少し滑った。でも転ばなかった。体勢を立て直して、二人抜いた。

僕は叫んでいた。

「タケル!」

——と、書きたいところだけど、実際は違う名前を叫んだ。彼の本当の名前を。ここには書けない、彼の本当の名前を。

そのとき、隣でユキさんが泣いていた。

雨の中だったから、涙なのか雨粒なのかわからなかった。でも、肩が震えていたからわかった。ユキさんは傘を持つ手を下ろして、両手で口を覆って、声を殺して泣いていた。

僕はその涙を見て、「本物だ」と思った。

何の疑いもなく。

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この仕事をしていると、「それって本物の感情なんですか」と聞かれることがある。取材で。講演で。ときには依頼者本人から。

本物の感情とは何か。

僕はいつも、この問いの前で立ち止まる。

たとえば、僕がタケルの運動会で感じた高揚。あれは「演技」だったのか。六年間、運動会や授業参観や三者面談に通い続け、彼の成績が上がれば嬉しく、友達とケンカしたと聞けば心配した。あの感情は、契約書の上に成り立っているから「偽物」なのか。

血がつながっていれば本物の家族か? そんな単純な話ではない。

血のつながった父親が子供を殴る家庭がある。血のつながった母親が子供の存在を否定する家庭がある。僕のところに依頼が来るのは、そういう現実の「後」だ。本来あるべきものが壊れた後、あるいは最初から存在しなかったものを、僕たちが代わりに差し出す。

それを「嘘」と呼ぶことは簡単だ。

でも、梅雨の雨の中でユキさんが流した涙は嘘じゃなかった。タケルがバトンを渡した後、こっちに向かって小さくガッツポーズをしたあの表情は嘘じゃなかった。僕の胸の内側がじんと熱くなったあの感覚は、嘘じゃなかった。

感情が本物なら、それは本物だ。

僕はそう信じている。信じているというより、そう信じなければこの仕事を続けられない、という方が正確かもしれない。

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六月という季節は、この仕事に似ている気がする。

梅雨空の下では、すべてが曖昧になる。晴れと雨の境目。昼と夕方の境目。涙と雨粒の境目。境界線がにじんで、溶けて、どこからどこまでが何なのかわからなくなる。

僕の人生もそうだ。

正直に言えば、僕はもう、どこまでが「演技」でどこからが「自分」なのか、はっきりとはわからない。プライベートで誰かと話しているとき、自分の笑顔が「本物」なのか、仕事で身につけた技術の延長なのか、区別がつかない瞬間がある。

それは怖いことだ。

でも、同時に思う。そもそも人間の感情に、そんなきれいな境界線があるのだろうか。

誰かに好かれたくて笑顔を作ったことはないだろうか。場の空気を読んで、本心とは違う言葉を選んだことはないだろうか。職場で「お疲れさまです」と言うとき、本当に相手の疲労を気遣っているだろうか。

人は誰でも、多かれ少なかれ「演じて」いる。

僕はそれを仕事にしているだけだ。ただ、仕事にしている分だけ、その問いが深く、重く、逃れられないものとして僕にのしかかる。それだけの違いだ。

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先日、あるスタッフが亡くなった。七十代の男性で、長年「おじいちゃん」役を専門にやっていた人だった。仮にマツさんとしておく。

マツさんを「おじいちゃん」として慕っていた依頼者の子供たちがいる。でも、その子たちはマツさんの葬式には参列できない。マツさんの本名も知らない。マツさんがどこに住んでいたかも知らない。「おじいちゃん、最近来ないね」という言葉に、僕たちは何かしらの理由をつけて答えなければならない。

これが、この仕事の残酷な部分だ。

感情は本物でも、関係には終わりがある。いや、終わりというより、「なかったこと」にしなければならない瞬間がある。依頼者がそれを知ることはない。知らないまま、次の「おじいちゃん」が現れ、物語は続く。

本当はこんなサービスはないほうがいい。

心からそう思っている。父親が最初からいて、家族が最初から壊れていなくて、おじいちゃんが本物のおじいちゃんで、運動会で叫ぶ名前を間違える心配なんてしなくていい世界。そんな世界のほうがいいに決まっている。

でも、必要としている人がいる限り、続ける。

それが僕の答えだ。今のところの。

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雨が降っている。今日も東京は梅雨空だ。

さっき、タケルからLINEが来た。「期末テストやばい」という、たった一行のメッセージ。その後に、泣き笑いの絵文字が一つ。

僕は返した。「数学は捨てるな」と。彼が数学が苦手なことを、僕は知っている。六年かけて知った。

この六年間の蓄積は、本物か、偽物か。

僕にはわからない。たぶん、わからないままでいい。わからないまま、次の運動会にも行く。次の三者面談にも行く。雨が降れば傘を差し出し、晴れれば日焼け止めを塗り忘れて後悔する。

雨粒は嘘をつかない。空から落ちてきて、地面を濡らし、やがて乾く。そこに意図はない。感情もそうあるべきなのかもしれない。湧き上がって、溢れて、やがて静まる。それが契約の上に立っていようが、血縁の上に立っていようが、関係ない。

濡れたものは、濡れたのだ。

窓の外の雨を見ながら、そんなことを考えている。六月の、じめじめした、どこか優しい午後に。

「本当はこんなサービスはないほうがいい。でも、必要としている人がいる限り、続ける」

— 石井裕一