※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です
先週の土曜日、ある少年の中学校の運動会に行ってきた。
彼の「父親」として、もう六年になる。仮に、タケルとしておく。小学四年生だったタケルは、今年で中学三年生になった。背は僕をとっくに追い越している。声変わりもした。でも、リレーでバトンを受け取る直前にこっちをちらっと見る癖だけは、六年前と変わらない。
その日は朝から雨だった。

六月の雨。梅雨のど真ん中。プログラムは一時間遅れで始まり、保護者たちは傘を差しながら、ぬかるんだグラウンドの端に固まっていた。僕のすぐ隣に、タケルの母親——仮にユキさんとしておく——が立っていた。ユキさんは小さな折りたたみ傘しか持っていなくて、僕の傘に少しだけ入ってきた。肩が触れた。
その瞬間、僕は考えてしまった。
この光景を誰かが見たら、どう見えるだろう。仲のいい夫婦に見えるだろうか。雨の中、息子の運動会を一緒に応援する、ごく普通の家族に見えるだろうか。
見えるだろうな、と思った。

そして、それは「嘘」なのだろうか。
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僕はこの仕事を長くやっている。五千人以上のスタッフを抱える会社の代表であり、同時に今も現場に立ち続けている人間だ。二十三の家族で三十五人以上の子供たちの「父親」を務め、六百人を超える女性の「夫」を演じてきた。
数字だけ見れば、異常だと思うだろう。僕自身もそう思う。
でも、一つ一つの現場には、数字では語れないものがある。
タケルの運動会の話に戻る。リレーが始まった。タケルは第三走者だった。バトンを受け取る直前、やっぱりこっちを見た。僕は右手を軽く上げた。いつものサインだ。「大丈夫、見てるよ」という意味の。
タケルは走った。雨でぬかるんだトラックを、泥を跳ね上げながら。途中、コーナーで少し滑った。でも転ばなかった。体勢を立て直して、二人抜いた。
僕は叫んでいた。
「タケル!」
——と、書きたいところだけど、実際は違う名前を叫んだ。彼の本当の名前を。ここには書けない、彼の本当の名前を。
そのとき、隣でユキさんが泣いていた。
雨の中だったから、涙なのか雨粒なのかわからなかった。でも、肩が震えていたからわかった。ユキさんは傘を持つ手を下ろして、両手で口を覆って、声を殺して泣いていた。
僕はその涙を見て、「本物だ」と思った。
何の疑いもなく。
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この仕事をしていると、「それって本物の感情なんですか」と聞かれることがある。取材で。講演で。ときには依頼者本人から。
本物の感情とは何か。
僕はいつも、この問いの前で立ち止まる。
たとえば、僕がタケルの運動会で感じた高揚。あれは「演技」だったのか。六年間、運動会や授業参観や三者面談に通い続け、彼の成績が上がれば嬉しく、友達とケンカしたと聞けば心配した。あの感情は、契約書の上に成り立っているから「偽物」なのか。
血がつながっていれば本物の家族か? そんな単純な話ではない。
血のつながった父親が子供を殴る家庭がある。血のつながった母親が子供の存在を否定する家庭がある。僕のところに依頼が来るのは、そういう現実の「後」だ。本来あるべきものが壊れた後、あるいは最初から存在しなかったものを、僕たちが代わりに差し出す。
それを「嘘」と呼ぶことは簡単だ。
でも、梅雨の雨の中でユキさんが流した涙は嘘じゃなかった。タケルがバトンを渡した後、こっちに向かって小さくガッツポーズをしたあの表情は嘘じゃなかった。僕の胸の内側がじんと熱くなったあの感覚は、嘘じゃなかった。
感情が本物なら、それは本物だ。
僕はそう信じている。信じているというより、そう信じなければこの仕事を続けられない、という方が正確かもしれない。
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六月という季節は、この仕事に似ている気がする。
梅雨空の下では、すべてが曖昧になる。晴れと雨の境目。昼と夕方の境目。涙と雨粒の境目。境界線がにじんで、溶けて、どこからどこまでが何なのかわからなくなる。
僕の人生もそうだ。
正直に言えば、僕はもう、どこまでが「演技」でどこからが「自分」なのか、はっきりとはわからない。プライベートで誰かと話しているとき、自分の笑顔が「本物」なのか、仕事で身につけた技術の延長なのか、区別がつかない瞬間がある。
それは怖いことだ。
でも、同時に思う。そもそも人間の感情に、そんなきれいな境界線があるのだろうか。
誰かに好かれたくて笑顔を作ったことはないだろうか。場の空気を読んで、本心とは違う言葉を選んだことはないだろうか。職場で「お疲れさまです」と言うとき、本当に相手の疲労を気遣っているだろうか。
人は誰でも、多かれ少なかれ「演じて」いる。
僕はそれを仕事にしているだけだ。ただ、仕事にしている分だけ、その問いが深く、重く、逃れられないものとして僕にのしかかる。それだけの違いだ。
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先日、あるスタッフが亡くなった。七十代の男性で、長年「おじいちゃん」役を専門にやっていた人だった。仮にマツさんとしておく。
マツさんを「おじいちゃん」として慕っていた依頼者の子供たちがいる。でも、その子たちはマツさんの葬式には参列できない。マツさんの本名も知らない。マツさんがどこに住んでいたかも知らない。「おじいちゃん、最近来ないね」という言葉に、僕たちは何かしらの理由をつけて答えなければならない。
これが、この仕事の残酷な部分だ。
感情は本物でも、関係には終わりがある。いや、終わりというより、「なかったこと」にしなければならない瞬間がある。依頼者がそれを知ることはない。知らないまま、次の「おじいちゃん」が現れ、物語は続く。
本当はこんなサービスはないほうがいい。
心からそう思っている。父親が最初からいて、家族が最初から壊れていなくて、おじいちゃんが本物のおじいちゃんで、運動会で叫ぶ名前を間違える心配なんてしなくていい世界。そんな世界のほうがいいに決まっている。
でも、必要としている人がいる限り、続ける。
それが僕の答えだ。今のところの。
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雨が降っている。今日も東京は梅雨空だ。
さっき、タケルからLINEが来た。「期末テストやばい」という、たった一行のメッセージ。その後に、泣き笑いの絵文字が一つ。
僕は返した。「数学は捨てるな」と。彼が数学が苦手なことを、僕は知っている。六年かけて知った。
この六年間の蓄積は、本物か、偽物か。
僕にはわからない。たぶん、わからないままでいい。わからないまま、次の運動会にも行く。次の三者面談にも行く。雨が降れば傘を差し出し、晴れれば日焼け止めを塗り忘れて後悔する。
雨粒は嘘をつかない。空から落ちてきて、地面を濡らし、やがて乾く。そこに意図はない。感情もそうあるべきなのかもしれない。湧き上がって、溢れて、やがて静まる。それが契約の上に立っていようが、血縁の上に立っていようが、関係ない。
濡れたものは、濡れたのだ。
窓の外の雨を見ながら、そんなことを考えている。六月の、じめじめした、どこか優しい午後に。
「本当はこんなサービスはないほうがいい。でも、必要としている人がいる限り、続ける」
— 石井裕一