※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です
※プライバシー保護のため、依頼者の名前は全て仮名です
六月の日曜日、朝から雨だった。
僕はその日、ある運動会に「父親」として参加する予定だった。小学三年生の男の子、コウタくん。彼の母親である依頼者の佐藤さんから連絡が来たのは、前日の夜遅くだった。「明日、雨でも体育館でやるそうです。お願いします」。短いメッセージの最後に、小さな傘の絵文字がひとつ付いていた。

体育館に着くと、コウタくんが駆け寄ってきた。「お父さん、今日ぼく二番目に走るから見ててね」。僕は「おう、見てるよ」と答えた。何の迷いもなく、自然に。周りにいる本物の——いや、「血のつながった」父親たちと、僕の間にどんな違いがあるのか。少なくともあの瞬間、コウタくんの目に映っていた僕は、たしかに「お父さん」だった。
梅雨の湿った空気のなかで、僕はいつも同じことを考える。本物とは何だろう。偽物とは何だろう。雨粒に本物も偽物もないように、感情にもそんな区別は本当にあるのだろうか。
梅雨の体育館で「父親」を演じた日
体育館の徒競走で、コウタくんは三位だった。ゴールした後、彼は真っ先に僕のほうを見た。少し悔しそうな顔。僕は拍手しながら「よく走った!」と声をかけた。すると彼は小さくうなずいて、列に戻っていった。
あの瞬間の僕の拍手は、演技だったのか。僕自身、よくわからない。コウタくんが走っているとき、僕は本気で「頑張れ」と思っていた。三位でゴールしたとき、少しだけ胸が痛んだ。もっと一位に近づけたんじゃないかと、本気で悔しかった。これは台本にはない感情だ。

僕がファミリーロマンスの現場で長年やってきて確信していることがひとつある。感情は、関係の「形式」に従属しない。血がつながっているから愛が生まれるわけではないし、契約関係だから感情が偽物になるわけでもない。
佐藤さんがこのサービスを使い始めたのは、コウタくんが幼稚園の年長のときだった。保護者参観で「パパは?」と聞かれるたびに、コウタくんが黙り込むのが辛かったという。最初は年に二、三回だった依頼が、今では月に一度になっている。コウタくんは僕を父親だと信じている。佐藤さんは「いつか本当のことを話さなきゃいけない」と、会うたびに言う。でもまだ、その「いつか」は来ていない。
雨の匂いがする体育館で、僕はずっと考えていた。この拍手の温度を、誰が偽物だと言えるのだろう。
感情に「偽物」のラベルを貼れるのか
僕のもとには、さまざまな依頼が届く。結婚式の代理出席、謝罪代行、友人代行、高齢者の見守り訪問。どの現場でも、依頼者が求めているのは「形」だけではない。
ある結婚式の代理出席の依頼があった。新婦側の友人が極端に少なく、席が埋まらないという相談だった。僕たちのスタッフが四名、友人として参列した。スピーチを担当したスタッフの田中は、事前に新婦の中村さんと何度も打ち合わせをして、学生時代のエピソードを丁寧に聞き取った。本番、田中は途中で声を詰まらせた。打ち合わせで聞いた中村さんの苦労——親の介護をしながら看護師の資格を取った話——に、感情移入してしまったのだ。
式の後、中村さんから連絡があった。「田中さんが泣いてくれたとき、初めて自分の人生を認めてもらえた気がした」。
田中の涙は演技だったのか。僕は違うと思う。たしかに田中は「友人役」として現場に入った。報酬も発生している。でも、あの涙は契約書のどこにも書かれていなかった。中村さんの人生に触れて、自然にこぼれたものだった。
感情に「偽物」のラベルを貼ることは簡単だ。お金が介在しているから偽物。契約だから偽物。血がつながっていないから偽物。でも、そのラベルは誰のためのものだろう。少なくとも、あの結婚式場で涙を見た中村さんにとって、あれは本物だった。感情が本物なら、それは本物だ。僕はそう思っている。
雨の日に届く電話——「声が聞きたかっただけ」
梅雨の時期は、依頼が増える。特に多いのが、高齢者からの見守り訪問や電話の依頼だ。
八十代の吉田さんという女性がいる。息子さんは海外赴任中で、近くに親しい人がいない。月に二回、僕たちのスタッフが「甥」として自宅を訪問している。最初のうち、吉田さんは少しよそよそしかった。でも半年ほど経ったころ、スタッフが訪問すると、玄関先にお茶菓子が用意されるようになった。「あなたが来る日はね、朝から準備するのよ」。そう言って笑う吉田さんの顔を、スタッフは写真に撮りたかったけれど撮れなかったと報告してきた。
雨の日は特に電話が多い。「別に用事はないの。ただ、声が聞きたかっただけ」。吉田さんはそう言う。スタッフはそのたびに十五分ほど、天気の話や昨日のテレビの話をする。何でもない会話。でも、その何でもなさが、吉田さんの一日を支えている。
僕たちは「人間レンタル」と呼ばれることがある。その呼び方に慣れはしたけれど、正直なところ、完全にしっくりは来ていない。レンタルという言葉は、返却を前提としている。でも、吉田さんとスタッフの間に積み重なった半年分の会話は、返却できない。蓄積された感情は、契約が終わっても消えない。それはレンタルではなく、もっと別の何かだと思う。名前がまだないだけの、何かだ。
なぜ人は「代わり」を必要とするのか
社会が変わった。家族の形が変わった。昔なら近所のおじさんが担っていた役割、親戚のおばさんが埋めていた空白が、今は誰にも埋められないまま残っている。
僕のところに来る依頼の多くは、「本来なら自然に存在するはずだった人間関係」の補完だ。父親がいない子供に父親を。友人のいない結婚式に友人を。話し相手のいない高齢者に話し相手を。
これは個人の問題ではないと僕は思う。社会が構造的に生み出している空白だ。核家族化、地域コミュニティの希薄化、長時間労働、孤立。その結果として、人と人との間に隙間ができる。僕たちファミリーロマンスは、その隙間に入り込む仕事をしている。
でも僕は、依頼者に依存してほしくない。僕を使って、本当の人間関係を築いてほしい。これは矛盾しているように聞こえるかもしれない。代行サービスの代表が「使わないでほしい」と言っているのだから。でも本音だ。
理想を言えば、こんなサービスはないほうがいい。運動会に本当の父親が来てくれる社会。結婚式に本当の友人が十人も二十人も集まる社会。雨の日に電話をかける相手がちゃんといる社会。でも、現実はそうなっていない。必要としている人がいる限り、僕は続ける。
僕自身の「本物」が揺らぐとき
正直に書く。僕は時々、自分が何者なのかわからなくなる。
二十三の家族で三十五人以上の子供の「父親」を務めている。六百人以上の女性の「夫」を演じてきた。現場では別の名前を名乗り、別の職業を語り、別の人生を生きる。家に帰っても、ふとした瞬間に「今の自分は演技なのか、素なのか」がわからなくなることがある。
ある夜、自分の子供に「おやすみ」と言ったとき、一瞬、どの子供に言っているのかわからなくなった。ほんの一瞬だ。でもその一瞬が、鋭い刃のように胸に刺さった。
これは僕だけの問題ではない。長年この仕事をしているスタッフにも起きる。ある年配のスタッフは、十年以上「祖父」役を続けていた。彼が亡くなったとき、依頼者の子供は泣いた。でもその子は葬式には来られなかった。「おじいちゃん」が本当は誰だったのか、知らないから。知らせることもできないから。
僕たちの仕事は、感情を本物にする仕事だ。でもその本物の感情が、行き場を失うことがある。亡くなったスタッフを悼む依頼者の涙は、どこに向かえばいいのか。梅雨の雨のように、ただ降って、地面に染み込んで、消えるしかないのか。
この問いに、僕はまだ答えを持っていない。
雨が止んだ朝に
六月の東京は、毎日のように雨が降る。
傘をさして現場に向かうとき、僕はよく水たまりを見る。水たまりには空が映っている。曇り空でも、ビルの影でも、そこにある風景をそのまま映している。水たまりに映った空は、本物の空ではない。でも、そこに映っているものは確かに「空」だ。
僕たちの仕事は、水たまりに似ているのかもしれない。本物の家族ではない。本物の友人ではない。でも、そこに映っている感情は、たしかに感情だ。コウタくんの「お父さん、見ててね」。吉田さんの「声が聞きたかっただけ」。中村さんの「認めてもらえた気がした」。どれも水たまりに映った空のように、透明で、儚くて、でも確かにそこにある。
梅雨はいつか明ける。雨が止めば水たまりは乾いて、映っていた空も消える。でも、あの瞬間にそこに空があったことは、誰にも否定できない。
僕はまた明日も、誰かの「父親」になる。誰かの「夫」になる。誰かの「友人」になる。その感情が本物かどうかを決めるのは、僕ではない。僕の目の前にいる、あの人だ。
雨は今日も降っている。でも僕は、傘を持たずに出かけようと思う。濡れてみないとわからないことが、きっとある。
「本当はこんなサービスはないほうがいい。でも、必要としている人がいる限り、続ける」
— 石井裕一